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長谷山博之のシネコンサートが待ち遠しい! 《 レナード・バーンスタインとは 》
2021.01.12
ベルリン・フィルのカラヤン、ウィーン・フィルのベーム、シカゴ交響楽団のショルティと並んで音楽界を風靡したニューヨーク・フィルのレナード・バーンスタイン。私の世代だとクラシック音楽に全く縁のない人でもバーンスタインの作曲したミュージカル「ウエスト・サイド・ストーリー」の〝トゥナイト〟等は耳にしたことがある筈である。このミュージカルは現代版「ロミオとジュリエット」ともいわれ初演の1957年から未だに上演されているもので、オーケストラによるコンサート用の曲まである。シェークスピアの方は御家柄の関係で二人が一緒になれない話だが、バーンスタインの方はニューヨークの下町でポーランド系とプエリトリコ系の対立する非行少年グループの話である。
ジャンルレスの20世紀の音楽界の巨匠中の巨匠である。指揮者であった、作曲家でもあった、教育者でもあったのが他の音楽家と一線を画すところであろう。老いも若きも、男も女も音楽を愛する人をバーンスタインは愛した。周りはバーンスタインをレニーと愛称で呼んでいた。愛称で呼ばれる巨匠など私は他に知らない。「カラヤンに食事を誘われると、緊張するけどレニーに誘われると嬉しかった」とは後に大指揮者となった某氏の弁。
一日5箱のタバコを吸い、ウィスキー1本飲みながらレニーは音楽と向かい合い、若き才能の未来を考え、人々に感動を与えてきた。
お人柄の故だろう、誰彼と無く周りに人が集まってきた。彼自身が人を愛したから故に彼も愛されたのだろう。
バーンスタインは1918生れのユダヤ系のアメリカ人、多くの指揮者がヨーロッパから渡ってきた人が多い中、アメリカ生まれのアメリカ育ちの最初の大指揮者であった事もアメリカで愛された理由の一つである。 ブルーノ・ワルター(戦争がはじまりナチスドイツから逃れアメリカに移住したユダヤ人指揮者)の体調不調で急遽代役を務めたのが大きくデビューしたきっかけ。時は1943年、バーンスタインが若干25歳の時である。それ以来、その才能は留まることを知らずにニューヨーク・フィルの音楽監督まで登りつめた。その音楽監督を1969年に辞任してからは世界中のオーケストラに客演。日本にも1961年を最初に亡くなる直前の1990年まで何度も来日している。1985年に「広島平和コンサート」の指揮を執ったのが印象的。被爆祈念館のノートに「言葉は十分だ。行動は不十分だ」のサインに込められた原爆への怒りとも平和への切望ともとれる熱すぎるメーッセージが印象的であった。

photo(c)Unitel

小澤征爾、佐渡裕、大植英次、大野和士、広上淳一など多くの日本人指揮者がバーンスタインに影響を受け国内外で活躍している。
と、長い前置きであるが、そんな彼がベートーヴェンとどのように向かい合っていたのだろう。改めて考えると興味は尽きない。
モーツアルトの様な美しさもドビュッシーの様な透明感もないベートーヴェンの音楽は、それ故に人間臭く、得体のしれない躍動感と、喜怒哀楽が詰まっていて、言葉では言い表せない。音楽史上稀にみる作曲家の一人であることは間違いない。
このたびのシネコンサートの収録は、バーンスタインが50代で最も指揮者として充実していた時代、それもオーケストラは世界最高峰のウィーン・フィルである。
大きな画面から溢れるバーンスタインの音楽は画面の先に大きなものが見えて来るに違いない。

長谷山博之☞
公益財団法人仙台フィルハーモニー管弦楽団事務局勤務。
「仙台発 大人の情報誌 りらく」連載「音楽(ねらく)物語」(現在休載中)で健筆を振るうなどクラシック音楽の伝道師としても活動。
美酒と美食と音楽そしてこの世のすべてのものを愛する、まるでバーンスタインみたいな博愛主義者。(笑)